藤本太郎兵衛像
近代は瀬田川の洗堰が琵琶湖の洪水予防をしています。
瀬田川沿いの石山寺名物「しじみ飯」 ショウガの香りがほのかに香り、シジミはしっかり味がついています。
彦根の対岸、高島市新旭町琵琶湖湖畔に建つ「藤本太郎兵衛」の像です。昔から広大な琵琶湖から流れ出る川は瀬田川の一本だけです。そのために古の昔から琵琶湖畔の村々は度重なる水害に悩まされていました。江戸時代後期、高島市新旭の庄屋の藤本太郎兵衛は農民の苦しみを救おうと立ち上がります。一代目太郎兵衛は湖辺の村々に川さらえを呼び掛け、177カ所の村の取りまとめ尽力し、天明4年(1784)瀬田川さらえが幕府から許可されましたが、工事は人夫の統制がとれず二年で中断。二代目太郎兵衛は、寛政3年(1791)委任状を持って単身江戸へ行き、老中松平越中守定信に川さらえの許可を打ち首覚悟で直訴しましたが取り上げられず、三代目太郎兵衛は、親の意思を継いで瀬田川下流の反対者の説得や幕府への嘆願を続け、ようやく念願の許可を得ることができました。天保の御救大さらえ」とよばれる大事業を成し遂げたのです。責任者は大津代官石原清左衛門、工事期間は50日間、延べ人夫31万1377人が動員されました。初代から50年の長い歳月をかけてやっと念願の夢が叶ったのです。
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