諏訪原城の名前の由来になった諏訪大明神
二の曲輪北馬出の門(復元)
二の曲輪北馬出の門からの景色 遙か向こうには富士山が望めます
城の眼下から大井川が見えます
昼食は牧之原台地のお茶蕎麦です
静岡県島田市、お茶畑がいっぱいの牧之原台地に築かれた「諏訪原城」です。井伊直政の正室・唐梅院の父、松井忠次が天正3年(1575)に鷹巣城攻略後、諏訪原城守備での功績により家康より偏諱と周防守の称号を許された出世の城を訪れました。高台からは遙か彼方に富士山が望め、眼下には大井川が見えます。島田市博物館課文化財係の諏訪原城跡のパンフレットによると、諏訪原城は天正元年(1573)に遠江新攻撃のために武田勝頼によって築かれたお城で、城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城の名前が付いたと言われています。諏訪原城は駿河から遠江に入る要所で掛川の高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を担いました。天正3年(1575)に徳川家康によって攻め落とされたあと、牧野城と名前が変わり、今川氏真や松平家忠らが城番になりました。天正9年(1581)に高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性がなくなり、徳川家康が関東に移ったことから天正18年(1590)頃廃城になったそうです。
東海道が城内を通過し東西交通の要衝の地に築かれたお城です。武田氏が滅亡すると、忠次は沼津の三枚橋城に在城し、駿河匡富士郡・駿東郡の郡代を任されました。
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